【 失業をバネにして 】
平尾代表は1962年に岩手大学獣医学部を卒業して間もなく渡伯、ずっと畜産関係の仕事に携わってきた。
もっとも長く勤めたのは某社の25年、自分の会社と思い粉骨砕身の努力をして会社を盛り上げてきたつもりであったが、93年8月突然引導を渡され、僅かばかりの手切れ金をもらって事実上放り出された。
時に53歳、全く予期していなかった青天の霹靂に途方にくれた。
彼が失意のどん底にあるときコロニアの長老から「君は若くして「失業」というチャンスに恵まれたのだから、今後は何か事業をしたら良い。私の歳まで30年もある。」と言われ、目からウロコが取れたような気がした。
途中数々の模索と試行錯誤が続いたが、98年「グリーンフーズ社」を若い準二世比良明彦さんと設立。プロポリス、アガリクスを主とするブラジル特産健康食品の製造販売を開始した。
失意をバネとした不屈の精神と綿密な計画、たゆまぬ努力が今日の成功をもたらしたと言えよう。
【 事業の特徴と強さ 】
グリーンフーズ社は健康産業を主目的にしてブラジルの薬草類を製品化し、およそ90パーセントを日本へ向けて輸出している。
その経営方針は
@日本からの技術・情報をいち早く取り入れる。
A国内のみならず輸出に力を入れる。
B良質原料を使用して最高品質の商品を製造し、早く確実な対応で顧客を満足させる。
C各社員の能力を最大に発揮できるような社内環境作り。
D無借金経営。
これらの方針はいずれも事業の特徴と強さを象徴している。
無借金経営について平尾代表は「どの銀行も貸してくれなかったのが結果的には幸いした。」というが、そのためには並々ならぬ苦労と経営手腕が要求された筈だ。
飾らぬ真面目な顧客への対応と、高品質且つ安全な製品で常連の顧客を掴んでいるグリーンフーズ社は大きく躍進中だ。
【 地域社会とともに発展 】
@高齢化社会にマッチした「優れた美味しい健康食品」
A小動物用健康食品
B周辺農家が生産する農産物 の加工
三点を将来の目標としている。
平尾代表は「出稼ぎに行った農家の青年たちが帰ってきたときに受け皿となる産業を開発できないものか」と考えている。農産加工を手がけているのも地域社会とともに発展することを願っての事業である。新工場落成を記念して地域振興の一助にと、苦しい経営状態の中から1万レアイスを地元アルジャー文協へ寄付したという。
グリーンフーズは今回の工場落成によって漸く基礎が固まったばかりの若いベンチャー企業である。今後この地域に根付いて着実に発展し、ブラジルの健康産業を牽引していく役割を果たすよう成長を見守りたい。
財界展望 |
財界展望(2003年5月号 ブラジル企画 戦後移住50周年記念アンケートの記事から)Green Foods社の平尾社長の紹介
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姓名:平尾 健 (食品会社経営)
略歴: 1939年 北海道に生まれる
最終学歴:1962年岩手大学農学部獣医学科卒、同年12月サントス着港
生活信条:1日1日の積み重ねが人生だから、楽しく意義ある毎日を!そしてお迎えが来た時は、「我が人生面白かった!」と笑って死にたい。
趣味:旅行、釣り、家庭菜園
家族構成:夫婦と子供2人
日本への一言:
子育ての方向を変えては? 今の母親は頭脳明晰な子作りに励んでいるようですが、世界に通用しないのでは。
これからは多少ボンクラでも、包容力と忍耐力のある、どんな境遇にも適応できる巾広い人材が必要になってくると思います。
日本の良さを一言:優れた技術、素晴らしい自然、勤勉さ、まだ残っている武士道精神
移住目的と当時のブラジルの印象:
大農場経営を夢見てきましたが、その夢は見事破れました。
温暖な気候と広大な土地。人なつっこい楽天的な国民に親しみを感じた。
最初の仕事から今日に至る苦労話:
1963〜64年 呼び寄せ人のボーイスカウト農場で農業に従事
64〜68年 畜産技師としてコチア産業組合に奉職
68〜93年 畜産薬品会社勤務
93〜95年 失職
95年6月 健康食品会社を設立して今日に至る。
我々戦後移民は、戦前移民が50年かかって築いてくれた礎の上に始まった。
従って戦前移民が蒙ったような悲惨な辛苦(マラリア、結核、貧困、夜逃げ、勝ち組、負け組み問題)や棄民の悲哀を味わうことはなかった。
日本語のラジオ、新聞もあり、日本食もあり、それほど望郷の念に駆られることもなかった。
私は運良く、移住1年後にコチア産業組合に畜産技師として就職し、そこで言葉を覚え、運転免許を取得し、畜産技師としてブラジル各地を訪問して見聞を広め、多くの知人、友人を得ることができた。ブラジルでの生活基盤を築いた貴重な4年半であった。
68年、設立間もない畜産薬品会社に請われて入社し、社長の右腕となって事業を発展させてきた。
会社は順調に伸びて月間販売額が100万ドルを超えたころ、同グループでコーヒー栽培事業を始め、私が責任者となってサンパウロから1,400km離れたセラードで約8年かかって250haのコーヒー園を造成、漸く利益を見込めるとホッとしたところで社長から「息子が大学を卒業し、血の通った右腕ができた。あんたは邪魔になる。」という理由で突然、引導を渡された。
25年後の53歳のときに遭遇した晴天の霹靂だった。
その後、妻が連続して心臓発作、頭痛、下痢などの症状を起こし、その度に病院通いとなったが、すべて私の突然の失職が原因の「心因症」であった。
私が失意のどん底に居る時に、コロニアの長老と話す機会があり、私の現状を話したところ「君は若くして失業というチャンスに恵まれたのだから、今後は何か事業をしたら良い。
私の年齢までにはまだ30年もある。」と言われ、目からウロコが取れたような気がした。
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